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2022年8月28日日曜日

弘前ねぷた300年祭を記念して、青森ネブタ、斜里ネプタ、太田ネプタが合同運行される。

8月27日の夜、弘前ねぷた300年祭を記念して 青森ネブタ、斜里ネプタ、太田ネプタの合同運行が行われた。

まだ薄暮の中出陣を待つ、弘前の扇ねぷた。
ネプタ集団「津軽衆」のねぷた。前ネプタと本ネプタ。
本ネプタの鏡絵は「藩祖津軽為信」です。
弘前では珍しい組ネプタ(人形ネプタ)昔からこのスタイルも続いていました。弘高ねぷたはこのスタイルですね。
弘前市との友好都市北海道斜里町のねぷた。
藩政時代、弘前藩士がロシアの侵入を防ぐため北方警備に従事し多数の藩士などが遭難にあった。
群馬県太田市尾島町は弘前藩の飛び地の領地があったところ。二代藩主の側室大館御前(石田三成の娘)がすんでいたとされる。ここも友好都市の協定を結び、86年からネプタまつりが続いている。
起源は同じねぷたにネブタであるが、青森のねぶたは弘前の
道路からはみ出してしまいそう。
 弘前を練り歩くのは初めてみたいです。






2022年8月6日土曜日

今年の弘前ねぷたは300年祭ですよ‼

 弘前ねぷたまつりも新型コロナの蔓延で2年連続中止となった。さすが3年もするとコロナ疲れでいやいやしていたところ。まだ第7波の兆しが見えない頃に、経済を廻さなくてはとの政策で、行動制限はしないは夏休みが始まった。まず青森のねぶた祭りが開催を決め、それに引き続き弘前、五所川原も続いた。

 弘前ねぷたは1722年(享保7年)の弘前藩庁日記7月6日に、5代藩主信寿が紺屋町の織座で「称むた」を高覧したとある。「称むた」は「ねむた・ねぷた」である。

 ネプタの正面は鏡絵。裏は送り絵と呼ぶ。表と裏でがらりと雰囲気が変わるところがまた面白い。弘前ねぷたは青森ネブタと違った情緒がある。
私の子供の頃は無かったが、ネブタも年々大型化しているが、お囃子の太鼓もそうだ。中には大型太鼓を、若い女性が跨いでもろ肌脱ぎ、胸にはさらしを巻き、太鼓をたたいている。歳よりには、目の保養にもなって中々いいもんですよ。
ネプタを長年見ていると、好みの絵師が出来てくる。私の好みは茂森新町の「三浦呑龍師」。昔からの伝統をしっかりと受け継いで進化している気がするのである。
この町会は絵師、曳手や囃子方が一緒になって運行し、後継も育成している姿が見えるのは嬉しい。
 さて、今年のさんきゅう会の第20回総会は4年ぶりに開催予定となっている。流石今回は、他県からの参加予定はゼロであるが、今のところ、40名の申し込みがあるそうだ。
 昨日の青森県の新型コロナの感染者は青森、八戸を抜いて弘前が第一位の424人ある。予定していた二次会は中止となった。AIの感染状況予想では6日をピークに緩やかに下がっていくという。鏡が丘同窓会も、弘高ねぷたも7月に行われたので、さんきゅう会も無事開催されることを願うのみである。                ターザン






 

2019年8月28日水曜日

ねぷたに思わぬ追い風か


今年の話題の中に4Kテレビ、8Kテレビの放送開始とこれらテレビのオリンピック目当ての販売商戦があるようですね。 私の住む神奈川でも大型家電ショップを中心に特設売り場を設け、日本製、韓国製、中国製の大型4Kテレビが展示され、デモが行われています。
 この際、メーカー等から提供されたデモテープの一部にねぶたの夜間運行の様子が映し出されており、これが大型ハイビジョンテレビにはぴったりの画像になっているのです。
 もちろん、これらデモテープには風景番組や世界遺産等々あるのですが、真黒の夜空に極色彩の人形ねぶたや扇ねぷたの迫力がよく映えるようで、見学のお客さんがよく立ち止まって見ているのが目につきます。
 夏のお祭りというと関東では徳島の阿波踊り、隅田川を始めとした各地の花火大会、ねぶたが有名です。 youtube等の画像で見ると、ねぶたがこの中では抜群に絵になります。(画像をとる側からすると撮りやすい素材と言えるでしょうか)
 一説によるとねぶた祭りは、祇園祭、神田祭、博多どんたくと言う表通りの3大祭りにも肉薄しているという噂もあります。 このままオリンピックまで4Kテレビ特設会場で応援してくれると、もしかするとこの夢は実現するかも知れません。

ねぶたやねぷたを関東ではどのように感じているかを私見ながらレポートさせて頂きました。

 イメージ画像はCyocoさんからお借りしました。

2019年8月9日金曜日

五所川原の立佞武多(タチネプタ)2019

青森の夏祭りと言えば「青森のねぶた」に「弘前のねぷた」である。しかし最近、弘前のねぷたを抜いて人気を博しているのが五所川原の立佞武多である。吉幾三のヒット曲の「タチネプタ」である。8月5日五所川原に見物に行った。
五所川原の立佞武の特徴はその高さである。高さ23メートルとビルの7階建てに相当する高さ。見物人の大きさと比較してみてください。
この大型ネプタは立ネプタの館という建物の中に展示されていて、入り口が開閉式で、今出陣するところである。
今年制作された「かぐや」は令和を記念して、日本最古の物語「竹取物語」からかぐや姫が月に帰る姿をイメージして作られた。
今までの立佞武多とは違った優雅で幻想的な美しいものである。
青森や弘前とも違った趣の五所川原の立佞武多であった。




















2019年1月16日水曜日

「迎春ねぶた」


 2週間遅れの1月12日に寒川神社に参拝に行ってきました。寒川神社は神奈川県の県央にあり、今住む厚木からすぐのところにあります。


今年の「天孫降臨」の製作者は青森のねぶた師北村蓮明氏。平成最後の年を意識してのテーマの選択か?
寒川神社では2001年から毎年干支をテーマ神門に「迎春ねぶた」が取り付けられていましたが、干支が一巡したため、2013年から古事記の「神話」に変わりました。

過去の「迎春ねぶた」の写真は ここ をクリックすることで見ることができます。

(小田桐記)

2018年6月18日月曜日

1997年は弘前と東京の交流年??

補足説明になります。8月2日と言うと弘前ネプタ2日目。茂森町「サンパレス秋田屋」に39会東京の旧友を
迎えて地元との交流会と景気づけをした後、祭りに参加する方が衣装に着替えて出かけた後に残った面々で撮った集合写真だと記憶しています。弘前の当時の事務局長さんだけがネプタ衣装。もう一人は?現東京支部長さんが中央に写っていますね。私(dent)の記憶もかなり曖昧になってきました。間違っていたらコメント下さい。

2016年3月14日月曜日

来月は観桜会です。


3月5日に、撮った写真です。これに桜が加わった風景が楽しみです。


◎ 東京観桜会
今年の合同観桜会は、4月3日(日)正午から、猿江公園で行われ、さんきゅう会東京支部も参加します。
会費は一人3千円です。
参加申込は、3月25日朝までに、東京支部事務局へお願いします。

当日は、会場(時計台周辺)の受付で「さんきゅう会」の場所を、お尋ねください。
*猿江公園 
・都営地下鉄新宿線(S13)・東京メトロ半蔵門線「住吉」(Z12)下車 A3出口 徒歩2分
・JR総武線「錦糸町」南口下車 徒歩15分


○ 弘前観桜会
弘前のさんきゅう会観桜会は、例年通り、4月29日(祝)11時から、弘前文化センターで開催される見込みです。詳細は後日連絡されます。




◆ 銀座に「立ちネプタ」
18~21日、銀座ソニービル(数寄屋橋交差点のカドッコ)に、「立ちネプタ」が飾られます。
作13日には、台が貼付けられていました。
詳しくは、たちねぷたのやかた

2014年7月24日木曜日

総会案内


最近の「弘高ねぷた」には、昼から場所取りをして、見物する市民もいるそうです。
昨23日は悪天候のために、今夜出陣のようです。
先日帰省した際に、交通規制の予告看板を土手町でみかけました。





さて、来月のさんきゅう会総会の案内状が、発送されています。案内文にあるように、今年は盛り沢山の内容です。
東京支部からも、多数の会員が参加されるように、お願いします。
(写真は7月16日に開催された役員会の模様。他に、太田会長・清水事務局長・中林会員と笠井が出席)



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弘高さんきゅう会員 殿
平成26年7月吉日
弘高さんきゅう会長
太田宏明

第17回弘高さんきゅう会同期会開催のご案内
今年は冷夏になるとの予想が外れ、日ごとに暑さが厳しくなってまいりました。皆様にはいかがお過ごしでしょうか。
さて私たちが昭和39年母校の弘前高校を卒業してから、本年度は早くも50年の節目の年になりました。又、今年私たちは、共に「古希」を迎えます。
昭和及び平成の26年間を歩んでこられた皆様の中には、残念ながら鬼籍の人になられた方もおられますが、幸いにもお元気でおられる方は是非ご参加下さるようお願い申し上げます。
母校は、昨年創立130年を迎え皆様には募金での多大なるご協力を有難うございました。

ついては、下記のとおり同期会を開催致します。
皆様お誘い合わせておいで下さるようお願い申し上げます。
記
日時:2014年8月14日(木)16時30分~     (受付は、15時30分~〉
場所:弘前パークホテル 4階「ラ・メエう」 弘前市土手町126
Tel 0172-31-0089 担当:今営業課長
会費:12、000円(総会費、二次会費を含む下記全会費(1~6)を含みます。以卜の項目及びさんきゅう会のこれから2年間の運営協力費を含め、誠に心苦しいのですがご了解下さるよう、伏してお願い申し上げます
①第17回弘高さんきゅう会同期会・総会
②「古希を祝う集い」・・岩木山神社、神主さんがパークホテルにて「祝詞奏上」
お札料も含まれます。
(還暦を祝う集いは、平成17年2月20日 パークホテルで実施致しました。)
③「弘前城石垣修理事業・天守閣曳家他」についての講演〔プロジェクター・スクリーン使用〕
弘前市都市環境部公園緑地課、弘前城整備活用推進室 石川竜明氏講演
④記念写真
⑤二次会‥「Mix Bar VANVAN」<飲み放題>
弘前市新鍛冶町97-1 開発センター2F   Tel 0172-36-3345

ご出席の有無を同封のはがきにご記入の上,7月30日までにお知らせ下さるようお願い申し上げます。

追伸:⑥「弘高さんきゅう会員名簿」も当日お渡し致します。

2013年12月2日月曜日

ネプタ喧嘩の末に

 先人から聞いたことをわずかに記憶している、「ネプタ喧嘩」は江戸時代にもありましたが、明治以降、その主体は市内にできた町道場に移りました。
明治24(1891)年8月には、「北辰堂」道場が襲撃される事件があり、死傷者が出ました。現在も「藤田弘犠牲者」という木札が、道場に掲げられているそうです。
このほど発行された「北辰堂創立130周年記念誌」に、編集委員の三戸建次さん(さんきゅう会員)が、”北辰堂を必死に守り抜いた「藤田弘」氏に、私たちは心からの敬意と感謝の念を抱き、ご冥福を祈る次第である。「北辰堂」は彼の死を風化させてはならない。”、という趣旨で、論文を執筆されました。執筆者の許可をいただいて、以下に転載します(確実な資料が少ないため、執筆者の推測で補われている部分があります)。
[参照]青森県立郷土館ニュース「喧嘩ねぷたと町道場」
なお、当時の東奥日報では(判決記事を含め)、死亡者を「葛西保」と報じていますが、明治25年10月12日の記事だけは「藤田保」の追悼会が隣松寺で行われたと報じています。
また「ねぶたの歴史」(藤田本太郎著。1976)では、犠牲者の名前が「藤田(葛西)保」とされています。

ーーーーー 喧嘩ネプタ「北辰堂襲撃事件」顛末記ーーーーー   
1. はじめに
1-1 「北辰堂」(ほくしんどう)道場の壁に古色蒼然とした沢山の名札が在る中に、「藤田弘 犠牲者」という名札が1枚下がっている。一切の説明がなく、何とも不可思議な雰囲気が漂っている…。
1-2 数々の血生臭い明治期の喧嘩(けんか)ネプタの中でも、壮絶さの白眉として長く語り継がれ、弘前衆の念頭から離れないものに、沢山の死傷者を出した「北辰堂(ほくしんどう)襲撃事件」がある。町道場の「北辰堂」と「暘明館」(ようめいかん)との根深い対立が原因で起きたこの襲撃事件は双方多数の負傷者を出し、「北辰堂」側から死者1名、重傷者2名を出した。
襲撃した「暘明館」側から容疑者として24名が逮捕。取り調べの結果16名が喧嘩ネプタ史上初めて裁判沙汰となったのであった。喧嘩ネプタに遺恨を残さずという風潮があったが、悲惨な事件だけに、その事件のインパクトは市民にとっては強烈すぎた。事件は様々な憶測を生んで当時の人々の脳裏に深く刻まれていった。
上記の不可思議な雰囲気漂う「藤田弘」なる人物こそが「北辰堂」が襲撃を受けた際、その侵入を防ぐために身体を張って道場を死守した、その当人である。しかし、「北辰堂のあゆみ」(昭和9年9月8日付け)の記録には、「明治24年8月、侫武多喧嘩があり北辰堂道場が襲撃を受け藤田弘氏斬られる」とだけ書かれてある。1891年の事件発生から122年経った今、この事件の詳細を知る人は殆どいない。改めてこの全貌を明らかにすることによって、我が「北辰堂」を死守してくれた藤田弘氏のご冥福を祈りたい。


2. 当時の東奥日報記事(明治24年8月14日付等)
去る十一日午前三時、夜も漸く白み渡り、昨夜集い居たる大勢の会員も去りつくして残ったのはわずか六、七名の若輩宿直なし居たるのみにして、多くは前後も知らず熟睡なし居たるに、俄(にわか)に吶喊(とっかん)門前に起こり、つぶては雨の如く窓を打ち来たれば、スワッ事起これりと戸の隙より伺いたるに、何処より押し寄せけん兇徒数十人今にも押し入らんとするの勢いにて、隣家の屋根に上りて屋根石を打ち付け、戸を破りて中に入り荒さんとの危うさ見るに忍びず、中には人数いと少なき上、二十歳未満の少年多ければ、最早これまでなりと宿直員小山勝次郎、鈴木雄、葛西保、野呂三吾の四人は手に当たるこん棒を携え、群がる敵に面をも振らず分け入り、当たるを幸い縦横に薙ぎ立てればさしもの猛勢支え得ず、白刃を抜きつらね竹槍を撚りて四方より囲みて攻めたてるも、ついに五十余人の敵は四人の若者に追いまくられ、東の方へ向け逃げて行き、二町余り笹森町の角まで退けしは、この二町間は激戦奮闘いと凄まじく、敵には同士討ちの多かりしかは、夜明けて後は鮮血淋漓(りんる)として見る目もいと恐ろしかりしとなん。
小山以下の四人は十分散を追い退け、「北辰堂」の破潰(はかい)を救い得て帰り来たりて、始めて身の痛みを覚え、葛西保は頭に深き刀傷を受け、背には竹槍を以て痛く突かれたりしも、意気いと盛んに、鈴木、野呂の両人も重傷を負いしに、一人小山のみ二回まで敵中を切り抜けたる由なりしも微傷だも負わざりしという。
斯かる内に変を聞きたる警察官判事医師など駆け来たりて検視を為し、負傷者をいたわり治療に力を尽くされたりという。
「北辰堂」の人々この警報に接し、取るもの取りあえず馳せ集まり、同堂前の伊藤重吉方を借り入れ事務所に充て、専ら負傷者の介抱に尽力なし居る由にて、葛西保は余程の重傷なれば「北辰堂」に臥したるままなりしも、神気従容として猶盛んなりと。又、鈴木、野呂の両人は伊東病院に移して治療なし居るよし。
敵方にも負傷者いと多かり由なるが、弘前警察署にてこの変を聞くや疑いある方面へ直ちに巡査を派遣し、鍛冶町より十名、代官町、瓦ヶ町、坂本町、品川町、和徳町より二十余名を捕縛し、掛員は警察署に詰めおりて取り調べ次第嫌疑者を監獄へ送りおるため、弘前市は大昆雑をなしおるという。襲撃の原因は分からざるも、ネプタを持ち廻りたるにはあらざれば尋常の喧嘩と異なり、兇徒集罪をもって問わるべしと評判するものなり。


3. 事件の実際
3-1 「北辰堂」は明治16年9月8日笹森町29番地(岡兵一が棟方覺禰所有地を金9円で購人)に開場式を行った。明治22年2月10日夜半に火災にあい、7ヶ月後の9月8日元寺町に移転した。そして2年経った時の明治24年8月11日(旧暦7月7日)午前3時、「北辰堂」が「暘明館」によってネプタの七日未明という意表を衝いた奇襲作戦によって襲撃され、「北辰堂」側から死者1名、重傷者2名を出した。

3-2 直接の原因は当然、ネプタ祭りでの喧嘩が原因であった。以前から両者は鋭く対立していた。前年にも喧嘩があってこの事件の遠因となっていた。事件の2日前の夜、鍛冶町小路で「暘明館」のネプタが「北辰堂」のネプタを待ち伏せし、闇にまぎれて襲撃したのである。「北辰堂」のネプタは雨あられの様な投石にぶすぶすと穴が開きロウソクが消えた。その前方には「暘明館の担ぎネプタの若者たちが木刀を振り上げ、気勢を上げ逃げ去っていった。この時は警察が出勤して大事に至らなかった。
しかし、憤慨した「北辰堂」の代表格小山勝次郎(25才)が次の日、「暘明館」代表成田誠一(24才)に決闘書を送った。これに対し「暘明館」側は「まあまあ」とその場を収めた。しかし、これは「北辰堂」を油断させる策略だった。(双方の言い分には立場上、微妙な違いが見られる。挑戦状を受けた「暘明館」が「北辰堂」からの襲撃を警戒し、逆に先手を取って襲撃したとも言われる)。

3-3 旧暦7月6日の晩、「北辰堂」は最終日の六夜にネプタ運行を終わったところで、扇灯籠を道場前に飾りつけ慰労の酒宴を張った。やがて前市長の菊地九郎(44才)など年配の人たちは帰って、若い連中ばかり残った。「暘明館」の襲撃はあるかもと思いつつ、七日に入って守備を解いたのである。常日頃、「北辰堂」はいつでも闘うだけの力量があり、実際は「暘明館」を侮っていたのだ。
「暘明館」にとって力量に勝る「北辰堂」を完膚無きまで叩きのめすには、油断の虚をつく奇襲戦法しか活路は無かった。襲撃の計画は練られ準備は密かに進められていた。竹槍等の武器は桶屋の物置小屋に集められ、緊急の時は一気に出撃出来る態勢を取っていた。「暘明館」は斥候を放って六夜が好機と狙っていた。祭りの喧嘩は期間中に決着を付けねばならない。その絶好のチャンスがタイムリミットである七日の未明に到来した。
「陽明館」の軍は鍛治町に集合し、桶屋に隠していた竹槍を持ち、沢山のつぶての石を大八車に積んで、十分準備をして出陣。途中、あちこち賛同者を引き連れ、約70人余の大集団となり、未明の町中を一陣の風の如く「北辰堂」へ殺到した。
(注) 竹槍は青竹の尖端を鋭く削って、焦げない程度に火に炙り、種油をしいてこすると固くなり、どんな物にも突き刺さる。普段は厚紙の鞘をつけて掛けて置く。ネプタの時、この竹槍を持ち腰には脇差しを一本差して行く。正に戦争である。竹槍は鍛冶町が元祖であった。近くに桶屋職人が多いだけに竹はいくらでも供給出来た。

3-4 午前3時、突如、「北辰堂」の門前に吶喊が起こり、物々しい音と共に雨戸にパラパラと雨あられの如く石つぶてが襲って来た。一瞬、堂内に稲妻の如く緊迫感が走った。窓から覗くと隣家の屋根に登って屋根石を投げつけて乱入しようとしている。確かに敵の襲来である。道場に侵入されては大事と直ちに防御に入った。残っていたのは小山勝次郎(25才)、成田忠平、対馬清彦、鈴木雄、赤松又五次郎、野呂三吾、藤田弘(20才)、中野浩、長尾富士麓(20才)、長尾健字(13才)、長尾愛三、煤田格楼、中野百吉、笹森長ら12、3才の少年をも加えて、わずか14、5名で少年達が多かった。

3-5 まず先に少年達を勝手口から密かに脱出させた。襲撃に対して戦える大人はわずかであった。代表格の小山、成田などは敵の背面より、藤田、鈴木、野呂などは正面から打って出る手はずを決め、5本あった日本刀を夫々に分配し、他は木刀、こん棒で立ち向かった。「北辰堂」が道場の外へ打って出ると、待ちかまえていた「暘明館」との間にたちまち大乱闘が始まった。多勢に無勢とはいえ、必死の「北辰堂]の壮士達はよく闘い、襲撃者を道場前から撃退した。暗闇の中の小山と成田の背面攻撃は見事功を奏して、敵方を混乱させ同士討ちにさせた。東長町界隈は逃げる者、追う者、全くの大混乱となり、東長町、笹森町、長坂町一帯で大乱闘が繰り広げられた。その内に「暘明館」は笹森町方面へ潰走した。「北辰堂」はこれ逃がさじと追い込んでいった。ところがこれは「暘明館」の策略であった。

3-6 実は、「暘明館」は「北辰堂」へ襲撃する前に十二分に策を練り上げていた。あらかじめ隊伍を二手に分け、一つは「北辰堂」の正面に迫り、鬨(とき)の声を上げ石を投げ放ち闘争を挑み、敗走の状をなして「北辰堂」を東長町から笹森町方面に引き込み、伏兵配置場所に誘い入れる。一方は東長町の三浦福三郎近くの人家両側の軒下に配置し待ち伏せ、竹槍で四方を取り囲むという作戦であった。

3-7 策略に陥った「北辰堂」が四方から竹槍攻撃を受ける中、「暘明館」の成田誠一は仕込杖を抜き放った。「北辰堂」の藤田弘(明治法律学校の学生、夏休みで帰省中)は前頭部に刀創、背部に竹槍傷2ヶ所、野呂三吾は右膝の上に刀創、背部に竹槍の槍傷を受けた。悩ミソがはみ出る程の瀕死の重傷を負った藤田は、一時は快方に向かったが、1ヶ月余の後、北辰堂の関係者の親身の看病空しく、ついに不帰の人となった。
【藤田の才ンチャが40日で死ぬ日、「今日は大変気分が良い。風呂へ出かけてアカでも流そう」と亀甲町の中村湯へ行き、皆に付き添われて帰ってから、「一つ詩吟をやる」と言って「金州城外立斜陽」を吟詠し終わるとバッタリそのまま息絶えた。劇的シーンだった。立派な死に方だと皆がワイワイ泣いた。オンチャはその時20才だった。死体を解剖したら脳ミソが腐っていた。「よく生きていたもんだ」と伊東重医者が言っていたという】(ネプタ四方山話 工藤虎雄談)


4. 裁判沙汰に 
4-1 襲撃があった現場周辺は足の踏み場もない程の石ころ、おびただしい数の竹槍の残がい、至る所に鮮血の跡があった。見る人々はその凄まじさに息を呑んだ。
早朝、鍛冶町の桶屋に警察の一隊がドッと踏み込み、職人が大勢寝込んでいた二階にドカドカと上がっていった。階段の下には血の付いたワラジがいっぱい脱ぎ捨てられてあった。丁度その時、女中が血の付いた竹槍をカマドにくべてご飯を炊いていた。警察は証拠物件として血の付いたワラジや竹槍を全部持っていった。無論、寝込んでいた職人全員捕縛され警察署に引っ張られていった。明け方に降雨があり、「北辰堂」向かいの喜久川菓子店前の水たまりに、七分(2cm)位の切断された指が落ちていた。和徳の鈴木某は指が無いので警察に呼ばれた。指を合わせてみたら違うので放免された。成田忠平、岡省太郎の隠していた刀に血が付いていたので警察の手が回った。「北辰堂」に重傷者が出たということで、「暘明館」の責任者として成田誠一、一戸寅之助が自首した。結果、「暘明館」の成田誠一ら24人が逮捕された。

4-2 当時、「北辰堂」では「ネプタでの喧嘩の決着はネプタで付ける」という道場の掟があった。警察の手で「暘明館」に復讐することを恥としていたため、身内に負傷者を出したにも関わらず、事実を隠蔽して「どこの誰が、何故押し寄せて来たのか全く分からない」と、警察の取り調べに対しては「一切分からぬ」と口を堅く閉ざしていた。
裁判の結果、「暘明館」側は証拠不十分として全員無罪となった。検察側は承知せず上訴し、2審で襲撃した首謀者の成田誠一だけ禁固6ヶ月の実刑判決を受けたが、他は又しても証拠不十分で無罪放免となった。
凄まじい闘いの跡を残し、互いに多数の犠牲者を出しながらも、最後は証拠不十分として無罪の判決が出た。これはネプタでの喧嘩の始末は、ネプタを担ぐ者同士で決着を付ける。たとえ讐察に引っ張られても、「知らぬ存ぜぬ」を通すことが相手側からも尊敬されるという歴史的しきたりがあった。津軽の風土に独特の武士の生き様が感じられる。
「命より名こそ惜しけれ陸奥の 武士の道をばかくや想わん………」

5. 喧嘩ネブタの時代背景(独特な弘前気質)
5-1 城下町弘前の独特なものとして、江戸時代からの「ネプタ祭り」がある。そこでは独自の弘前気質が現れる。津軽の厳しい風土の短い夏に、人々は日常の一切の拘束から身を解き放ち、持ちうるエネルギーの全てをはき出す。
木と竹と紙と極彩色の画で創った一過性の儚(はかな)い灯籠。扇ネプタの鏡絵には三国志の血みどろの激闘場面、生きる華やかさの極限。見送りの絵は血の滴る生首を抱いた美人。華やかさの陰にあるゾッとする殺伐としたこの余韻。明日は我が身の、生と死の表裏一体の世界がそこにある。この極彩色の絵はローソクの炎によって闇の中に浮かび上がり、怪しげに揺れ動く。大小無数の灯籠が町の至る所で引き廻され、死者は弔らわれる。

5-2 祭りには何処でも喧嘩はつきものであるが、弘前のネプタ祭りの喧嘩は歴史的に有名であった。元文4年(1739)7月6日「御国日記」には、「石を投げて相手のネプタを壊し、人に打撃を与え、木刀を振るって相手を打つ」とあり、もう喧嘩の記事が立派に載っている。手を焼いた町奉行は、頻繁に喧嘩禁止令を出していたが、全く効き目はなかった。維新直前の慶応3年(1867)の「御国日記」にも喧嘩禁止令が出ている。
城下の人々にとっては、武士の世界は勝負の世界、質実剛健の士気を涵養する空気が伝統的にあった。戊辰戦争、函館戦争、野辺他戦争などを経たことから、喧嘩ネプタで尚武の気質を育成するという、藩当局の臨戦的な姿勢が暗黙の中にあり、喧嘩は藩主より大いに奨励されて来たと信じて疑わぬ人々が多かった。藩政時代が終わっても、城下町特有の気風である尚武の風は消えずに残り、喧嘩ネプタは益々激しさを加えた。没落した武士階級には、不平不満の憂さ晴らしの格好の場であった。それが旧武士のみならず、一般市民にも及んだ。
町の道幅は狭く、大きなネプタが行き交う度に「よけろ」「よけない」の争いが起きても不思議はない。まして運行するのは、血気盛んな若者達である。口論が高じて掴み合いから始まり、石つぶての投げ合いが、次第に木刀などの得物を準備して出動する様になり、遂には竹槍、仕込杖、脇差等まで活躍する様になった。

5-3 明治18年の弘前讐察署長堀善八郎は、薩摩の出身で、西南の役の最後の激戦地田原坂(たばるざか)で闘ったという猛者であった。赴任して来た時、この喧嘩ネプタに大いに興味を抱き、取り締まるどころか逆に奨励し、「ぜひ見たい」というので、一番町の突き当りにある警察署から新町坂の大決戦を見にやって来た。ところがあまりにも石合戦がひどく、署長、顔や手に石をぶっつけられてほうほうの体で後退を余儀なくさせられた。「田原坂合戦どころじゃない。薄暗い夜陰の鬨の声は大地を振動させ、全く凄い。このネプタの壮士が200人あれば、ゆうに一鎮台の兵を圧するに足る」との名セリフを吐いた。

5-4 当時の城下町弘前の人々は、幕末動乱を「先見の明」をもって闘い、明治維新を生き抜いた事に対する誇りを子弟に伝達しようとする風土があった。それだけに喧嘩ネプタの第一線に立って闘うことには、大きな意義があった。一方の旗頭としての実績があれば、「あれだけいがべ、かなりネプタでやってだ」(あれだったらいいだろう、大分喧嘩ネプタの先に立ってリーダーシッブがある。十分男気がある)と周囲に認知され、政界にも出られた。当時は政界に打って出る人問の評価は、喧嘩ネプタでの活躍で決まっていた。「北辰堂」の小山勝次郎も「暘明館」の成田誠一も、後には共に市会議員になっている。
道場の子供達も喧嘩ネプタの後に、脇差を差してくっ付いて行くのは、一人前と見なされ、誇りとしていた。それは度胸を付ける手段であり、正に真剣を抜く覚悟の修業であった。第11代堂長の小山秀雄氏(卜伝流11代宗家)も中学生の頃、「北辰堂」のネプタを担いで出陣したが、空から地からのひっきりなしの石つぶてを受け、大変な目に遭ったという。当時はどの親も「人に負けるな、泣いて帰るな」と、子弟を厳しく仕付けて来た鍛錬主義があった。

6. 明治20年前後の「町道場」
6-1 明治の幕開きと同時に、息つく間なく日本中に社会的・経済的怒濤が襲いかかって来た。急激に変転していく事態・事物に対応し得ない者は落後していった。特に武士階級は未来への方途と目標を見出し得ないまま、無為の曰々が続いていた。明冶10年代の弘前住民は、殿様の居ないお城の「天守閣」を仰ぎながら、日一日と灯りが消滅して往く城下町の重苦しい空気に、底知れぬ焦燥感を抱いていた。
藩政時代からの武士の子弟教育の根底は、お城の「天守閣」を心の拠り所とした「文武両道」による「武士道精神」の養成であった。しかし明治維新と武士社会の崩落後の「武士道精神」の欠如によって、瞬く間に人心は頽廃し、士気軟弱に流れ、剛健気風衰えることとなり、城下の旧武士たちは大いに憂えた。更に新政府が創設した学校教育で欠落しているものがあった。それは弘前特有の尚武の気風である。大人達は「文武両道」の伝統的教育を何としても独自に醸成させようと考えた。

この様な中、時代の流れに最も機敏な若者達は、周囲が見失いがちな士気が今もなお体内に脈々と流れているのを自覚し、無気力と沈滞から自らが起ち上がる以外に道はないと悟った。即ち、10数年前までの藩政時代は、家中の若者達は文武をもって仕える家臣の「道場」に通っていた。そこには学を修め武芸に励み、身心の鍛錬と仲間意識を温めた日々があった。「道場」の空気は、地域に伝わる思想的血筋を背景に、その界隈の「文武両道」の士風を築いていたのであった。
こうして地域の大人達と若者達の熱き想いが、共に維新後廃絶した文武修練の場である「道場」再建の発芽に至り、明治20年前後あちこちに町道場が設置されるに至った。

6-2 この様にして出来た町道場が、
・「北辰堂」(明治16.9.8  笹森町20番地。現北辰堂道場の斜め向かいが菊地九郎宅で、その裏手)
・「明治館」(明治17.2.15  鷹匠町24番地。現在サムエル保育園)
・「暘明館」(明治20.8.21  北瓦ヶ町8番地。現在郵便局の向かい)
・「城陽会」(明治27.11.3  本町8番地、現在消防署)
であった。

6-3 明治期の道場は士族のみならず町人にも開放され、子弟に高等小、中学主、町の青年等が入っていた。こうした町道場は地域の若者達の集会場となり、撃剣や柔術の武道の修練のみならず、大先達の講話は無論、討論会、回覧雑誌の発行等、多彩な活動による知的方面の錬磨も行い、文化活動の中心ともなっていた。「北辰堂」では明治30年11月2日の演説会の記録に、弁士として笹森順造(11歳)や市川宇門(14歳)の名が並んで記載されている。
道場で修業した若者たちは、その界隈の指導者となった後も道場と縁を切ることはなく、先輩・後輩という固い連帯性をもって結ばれていた。この様にして次第に各道場とも強烈な仲間意識を持ち、尚武の気風を尊び、大いに気勢が上がっていた。
だが、結果的に町道場が醸成していったものは、「人に負けるな」といった激烈な対抗心であった。その意識は道場外で顕著に現れた。喧嘩ネプ夕は、それまでは不特定相手の偶々の町中での衝突であったが、明治20年代は喧嘩ネプタの主役は町道場に移った。若者達の集まる道場間の対立が一層熾烈なものになり、遂に明治24年、死傷者まで出た「北辰堂襲撃事件」が起きた.更に各道場には中学主も沢山通っていた関係で、明治34年「明治館」と「暘明館」の対立が激化し、和徳稲荷の宵宮の時、弘前中学生同士の乱闘があった。刃渡り一尺二寸の黒塗りの仕込杖で斬りつけ死傷者を出した。若者の熱気が暴走した青春の断片であった。

6-4 これを憂えた各町道場の幹部達が集まり善後策を協議し、各道場を統一したものがあればとの願いが出された。10年後の明治44年に大日本武徳会青森県支部が設立され、弘前公園北の郭に武徳殿が建立された。こうして各道場は武徳殿で稽占することとなり、「明治館」、「暘明館」、「城陽会」等の道場は次第に衰退していった。その中で「北辰堂」だけが生き残り現在に至っているのである。

7. 北辰堂襲撃事件の現代的意義
7-1 事件から122年…。「北辰堂」の壁に掲げられている古色蒼然とした名札一枚一枚は、明治、大正、昭和、戦後、そして現代へと沢山の浮き沈みの歴史を経て、その時々の道場の空気を真剣に創り伝えて来た証左である。彼ら一人々々は、どんな想いで修業して来たのだろうか。現在の剣道界は競技性(打合う楽しさ)が最優先し、審判の紅白の旗の上下しに、その修業目標を置くものに成り果てている。
「北辰堂」の創立精神といい、「北辰堂」襲撃に対して道場を死守した剣士達といい、そこにあるのは決して単なる競技としての剣道修業ではなかった。道場はあくまでも「至誠」に生き抜く人間としての基盤を養う聖域であった。130年もの長い間、脈々と廃れずに生き続けている「北辰堂」は、今  なお大和民族の素晴らしい遺産である剣道と、その原点てある古武道の技と精神を受け継ぎ、今日に至っている。
私たちはこの度の130周年を期して、大先達の方々が創り上げ伝えて来た「北辰堂」の精神を再確認しその意義を365日の朝稽古の汗の中に求めなければならない。

7-2 北辰堂を必死に守り抜いた「藤田弘」氏に、私たちは心からの敬意と感謝の念を抱き、ご冥福を祈る次第である。「北辰堂」は彼の死を風化させてはならない。

【注】「藤田弘」なのか「葛西保」なのか?
「北辰堂襲撃事件」で死亡した人物名は、明治24年8月14日付け東奥日報記事(市立図書館マイクロフイルム)には「葛西保」とある。道場に掲げられている名札の「藤田弘」とは姓も名も全く別名である。彼は当時、「葛西」家に養子に入っていたが、道場の皆から「藤田のオンチャ」と呼ばれていたので名札は「藤田」としたのだろう。これは納得出来る。しかし、「弘」でなく何故「保」なのだろう?どこで入れ違ったのだろうか…。
明治44年4月1日付けの北辰堂史(沿革提要)には創立時(明治16年9月8日)青年部の名前の中に「藤田弘」という人物はいるが「葛西保」なる人物はいない。この冊子は事件の20年後の物である。しかし、事件そのものに関した記事は掲載されていない。
昭和9年9月8日付けの北辰堂史には、「明治24年8月、侫武多喧嘩があり、北辰堂道場が襲撃を受け藤田弘氏斬られる」とある。この当時は、まだ事件の渦中にいた人物もおり、「藤田弘」なる人物名には問違いないと思う。
この寄稿記事では、「北辰堂」の道場に掲げられた名札の方に合わせて「弘」とさせて頂いた。(だが「弘」と「保」、どちらが正しいかの確信はない。ひょっとすると事件当時、「知らぬ存ぜぬ」を通していた北辰堂で、煩い記者にワザと「保」と言っていたのかも?)

【参考資料など】
北辰堂のあゆみ、北辰堂110周年記念誌、北辰堂保管資料、県郷土館資料(小山隆秀氏提供)、ねぷたの歴史(藤田本太郎著)、ネプタ祭り(笹原茂朱著)、弘前市教育史(上)、東奥日報記事、陸奥新報記事、弘前新聞記事、青森県日記百年史、青森県剣道史、三十年史(弘前剣道連盟)、青森県人各大辞典,弘前市政今昔(原子昭三著)、皇帝の森(いずみ涼著)、コンデ・コマ物語(三戸建次著)

以上、「北辰堂 創立130周年記念誌」(平成25年10月発刊)への、三戸建次氏「特別寄稿」を転載




2013年7月18日木曜日

今年の弘高ねぷた

昨夜(7月17日)恒例の弘高ねぷたが出陣した。今年は弘高創立130周年を記念して同窓会の大型ねぷたも、クラス作成のねぷた21台の最後を飾った。
 思い出せば高校三年生のときは80周年の大型ねぷたが出陣した。あれから50年たったのである。参加した同窓生は約100人、わがさんきゅう会からは5人とチョット少なかったが、土手町あたりの沿道で多数声援を送ってくれたひともいた。
 女性が目立つ今の弘高ねぷたの後について、50年前を思い出しながらしっかりと青春をした一夜でした。




2013年1月17日木曜日

東京ドームの立佞武多

昨16日、東京ドームで開催中の「ふるさと祭り東京ー日本の祭り・故郷の味ー」に行ってきました。
今年のポスターでは、ねぷた人形の顔が大きくあしらわれ、主役の感じがします。ポスターに並べられたたくさんのごちそう(故郷の味)を前にして、「どれにしようかな」と悩んでいるようにも見えます。  さて、ドーム内の通路入り口では、五所川原ねぷたの予告編がお出迎えです。「立佞武多祭り」と表示されていました。
通路から見える会場(グランド)の中でも、立佞武多がひときわ目立っていました。  観覧席の急な階段を下りて、会場(グランド)に入ると、目の前は青森県関係の店が並んでいました。青森ねぶた・弘前ねぷたも出迎えていますが、今日は引き立て役に徹したようで、小さくなっていました。
いよいよ、立佞武多の足元に到着しました。「鹿嶋大明神」が地震の元凶である大鯰を踏みつけ、地震抑えの「要石」を振り上げていました。  ドームの屋根をバックにした「鹿嶋大明神」の顔は、迫力十分です。
「故郷の味」の方は、酸ヶ湯のおでんを買いました。店のおじさんが商品の説明をしてくれたので、「我弘前だ」と言ったら、「へば、生姜味噌まけら」と笑ってくれました。 

2012年10月14日日曜日

東京鏡ヶ丘の総会模様


東京鏡ヶ丘総会(2012年10月13日)の雰囲気をお楽しみください。 さんきゅう会会員以外の写真もあります。  

2011年8月5日金曜日

弘前ねぷたまつり






 青森の夏祭りも真っ盛りであるが、8月1日から弘前ねぷたまつりが始まった。
今年は東日本大震災復興支援と弘前城築城400年を記念して特別な企画も持たれている。
31日には前夜祭のねぷた運行もあった。
1日には35万人の人出があったとのこと。
ねぷたの台数は昨年が84台で史上最高。今年は82台ということなので不況でスポンサー不足を心配していたがまずまずであろう。
ナヌカビは岩木川原で2台のねぷたを焼いて、震災で亡くなった方々の供養をするという。
昨夜、ねぷた見物に行ってみた。
一時、節電とバッテリー不足も心配されていたが、年毎にねぷたも大型化と照明もLEDの使用などで立派で美しく、楽しませてくれた。
初めてねぷたを見た観光客の驚嘆の声を聞くと地元の津軽人として誇らしく思う。
ふるさとの夏祭りは伝統と美しさをこれからも引き続いでもらいたいものと思う。

2011年1月14日金曜日

迎春干支ねぶた

今住んでいる、厚木市から車で30分のところに、寒川神社がある。


都内にすむ娘が10日遅れの正月休み、10日遅れの初詣に寒川神社に出かけた。
この神社で平成13年から「迎春干支ねぶた」として神門に飾られます。


寒川神社の御由緒

やはりねぶたは夜見学すべきかな。

寒川神社のHPで夜のねぶたがご覧ください。