先人から聞いたことをわずかに記憶している、「ネプタ喧嘩」は江戸時代にもありましたが、明治以降、その主体は市内にできた町道場に移りました。
明治24(1891)年8月には、「北辰堂」道場が襲撃される事件があり、死傷者が出ました。現在も「藤田弘犠牲者」という木札が、道場に掲げられているそうです。
このほど発行された「北辰堂創立130周年記念誌」に、編集委員の三戸建次さん(さんきゅう会員)が、”北辰堂を必死に守り抜いた「藤田弘」氏に、私たちは心からの敬意と感謝の念を抱き、ご冥福を祈る次第である。「北辰堂」は彼の死を風化させてはならない。”、という趣旨で、論文を執筆されました。執筆者の許可をいただいて、以下に転載します(確実な資料が少ないため、執筆者の推測で補われている部分があります)。
[参照]青森県立郷土館ニュース「喧嘩ねぷたと町道場」
なお、当時の東奥日報では(判決記事を含め)、死亡者を「葛西保」と報じていますが、明治25年10月12日の記事だけは「藤田保」の追悼会が隣松寺で行われたと報じています。
また「ねぶたの歴史」(藤田本太郎著。1976)では、犠牲者の名前が「藤田(葛西)保」とされています。
ーーーーー 喧嘩ネプタ「北辰堂襲撃事件」顛末記ーーーーー
1. はじめに
1-1 「北辰堂」(ほくしんどう)道場の壁に古色蒼然とした沢山の名札が在る中に、「藤田弘 犠牲者」という名札が1枚下がっている。一切の説明がなく、何とも不可思議な雰囲気が漂っている…。
1-2 数々の血生臭い明治期の喧嘩(けんか)ネプタの中でも、壮絶さの白眉として長く語り継がれ、弘前衆の念頭から離れないものに、沢山の死傷者を出した「北辰堂(ほくしんどう)襲撃事件」がある。町道場の「北辰堂」と「暘明館」(ようめいかん)との根深い対立が原因で起きたこの襲撃事件は双方多数の負傷者を出し、「北辰堂」側から死者1名、重傷者2名を出した。
襲撃した「暘明館」側から容疑者として24名が逮捕。取り調べの結果16名が喧嘩ネプタ史上初めて裁判沙汰となったのであった。喧嘩ネプタに遺恨を残さずという風潮があったが、悲惨な事件だけに、その事件のインパクトは市民にとっては強烈すぎた。事件は様々な憶測を生んで当時の人々の脳裏に深く刻まれていった。
上記の不可思議な雰囲気漂う「藤田弘」なる人物こそが「北辰堂」が襲撃を受けた際、その侵入を防ぐために身体を張って道場を死守した、その当人である。しかし、「北辰堂のあゆみ」(昭和9年9月8日付け)の記録には、「明治24年8月、侫武多喧嘩があり北辰堂道場が襲撃を受け藤田弘氏斬られる」とだけ書かれてある。1891年の事件発生から122年経った今、この事件の詳細を知る人は殆どいない。改めてこの全貌を明らかにすることによって、我が「北辰堂」を死守してくれた藤田弘氏のご冥福を祈りたい。
2. 当時の東奥日報記事(明治24年8月14日付等)
去る十一日午前三時、夜も漸く白み渡り、昨夜集い居たる大勢の会員も去りつくして残ったのはわずか六、七名の若輩宿直なし居たるのみにして、多くは前後も知らず熟睡なし居たるに、俄(にわか)に吶喊(とっかん)門前に起こり、つぶては雨の如く窓を打ち来たれば、スワッ事起これりと戸の隙より伺いたるに、何処より押し寄せけん兇徒数十人今にも押し入らんとするの勢いにて、隣家の屋根に上りて屋根石を打ち付け、戸を破りて中に入り荒さんとの危うさ見るに忍びず、中には人数いと少なき上、二十歳未満の少年多ければ、最早これまでなりと宿直員小山勝次郎、鈴木雄、葛西保、野呂三吾の四人は手に当たるこん棒を携え、群がる敵に面をも振らず分け入り、当たるを幸い縦横に薙ぎ立てればさしもの猛勢支え得ず、白刃を抜きつらね竹槍を撚りて四方より囲みて攻めたてるも、ついに五十余人の敵は四人の若者に追いまくられ、東の方へ向け逃げて行き、二町余り笹森町の角まで退けしは、この二町間は激戦奮闘いと凄まじく、敵には同士討ちの多かりしかは、夜明けて後は鮮血淋漓(りんる)として見る目もいと恐ろしかりしとなん。
小山以下の四人は十分散を追い退け、「北辰堂」の破潰(はかい)を救い得て帰り来たりて、始めて身の痛みを覚え、葛西保は頭に深き刀傷を受け、背には竹槍を以て痛く突かれたりしも、意気いと盛んに、鈴木、野呂の両人も重傷を負いしに、一人小山のみ二回まで敵中を切り抜けたる由なりしも微傷だも負わざりしという。
斯かる内に変を聞きたる警察官判事医師など駆け来たりて検視を為し、負傷者をいたわり治療に力を尽くされたりという。
「北辰堂」の人々この警報に接し、取るもの取りあえず馳せ集まり、同堂前の伊藤重吉方を借り入れ事務所に充て、専ら負傷者の介抱に尽力なし居る由にて、葛西保は余程の重傷なれば「北辰堂」に臥したるままなりしも、神気従容として猶盛んなりと。又、鈴木、野呂の両人は伊東病院に移して治療なし居るよし。
敵方にも負傷者いと多かり由なるが、弘前警察署にてこの変を聞くや疑いある方面へ直ちに巡査を派遣し、鍛冶町より十名、代官町、瓦ヶ町、坂本町、品川町、和徳町より二十余名を捕縛し、掛員は警察署に詰めおりて取り調べ次第嫌疑者を監獄へ送りおるため、弘前市は大昆雑をなしおるという。襲撃の原因は分からざるも、ネプタを持ち廻りたるにはあらざれば尋常の喧嘩と異なり、兇徒集罪をもって問わるべしと評判するものなり。
3. 事件の実際
3-1 「北辰堂」は明治16年9月8日笹森町29番地(岡兵一が棟方覺禰所有地を金9円で購人)に開場式を行った。明治22年2月10日夜半に火災にあい、7ヶ月後の9月8日元寺町に移転した。そして2年経った時の明治24年8月11日(旧暦7月7日)午前3時、「北辰堂」が「暘明館」によってネプタの七日未明という意表を衝いた奇襲作戦によって襲撃され、「北辰堂」側から死者1名、重傷者2名を出した。
3-2 直接の原因は当然、ネプタ祭りでの喧嘩が原因であった。以前から両者は鋭く対立していた。前年にも喧嘩があってこの事件の遠因となっていた。事件の2日前の夜、鍛冶町小路で「暘明館」のネプタが「北辰堂」のネプタを待ち伏せし、闇にまぎれて襲撃したのである。「北辰堂」のネプタは雨あられの様な投石にぶすぶすと穴が開きロウソクが消えた。その前方には「暘明館の担ぎネプタの若者たちが木刀を振り上げ、気勢を上げ逃げ去っていった。この時は警察が出勤して大事に至らなかった。
しかし、憤慨した「北辰堂」の代表格小山勝次郎(25才)が次の日、「暘明館」代表成田誠一(24才)に決闘書を送った。これに対し「暘明館」側は「まあまあ」とその場を収めた。しかし、これは「北辰堂」を油断させる策略だった。(双方の言い分には立場上、微妙な違いが見られる。挑戦状を受けた「暘明館」が「北辰堂」からの襲撃を警戒し、逆に先手を取って襲撃したとも言われる)。
3-3 旧暦7月6日の晩、「北辰堂」は最終日の六夜にネプタ運行を終わったところで、扇灯籠を道場前に飾りつけ慰労の酒宴を張った。やがて前市長の菊地九郎(44才)など年配の人たちは帰って、若い連中ばかり残った。「暘明館」の襲撃はあるかもと思いつつ、七日に入って守備を解いたのである。常日頃、「北辰堂」はいつでも闘うだけの力量があり、実際は「暘明館」を侮っていたのだ。
「暘明館」にとって力量に勝る「北辰堂」を完膚無きまで叩きのめすには、油断の虚をつく奇襲戦法しか活路は無かった。襲撃の計画は練られ準備は密かに進められていた。竹槍等の武器は桶屋の物置小屋に集められ、緊急の時は一気に出撃出来る態勢を取っていた。「暘明館」は斥候を放って六夜が好機と狙っていた。祭りの喧嘩は期間中に決着を付けねばならない。その絶好のチャンスがタイムリミットである七日の未明に到来した。
「陽明館」の軍は鍛治町に集合し、桶屋に隠していた竹槍を持ち、沢山のつぶての石を大八車に積んで、十分準備をして出陣。途中、あちこち賛同者を引き連れ、約70人余の大集団となり、未明の町中を一陣の風の如く「北辰堂」へ殺到した。
(注) 竹槍は青竹の尖端を鋭く削って、焦げない程度に火に炙り、種油をしいてこすると固くなり、どんな物にも突き刺さる。普段は厚紙の鞘をつけて掛けて置く。ネプタの時、この竹槍を持ち腰には脇差しを一本差して行く。正に戦争である。竹槍は鍛冶町が元祖であった。近くに桶屋職人が多いだけに竹はいくらでも供給出来た。
3-4 午前3時、突如、「北辰堂」の門前に吶喊が起こり、物々しい音と共に雨戸にパラパラと雨あられの如く石つぶてが襲って来た。一瞬、堂内に稲妻の如く緊迫感が走った。窓から覗くと隣家の屋根に登って屋根石を投げつけて乱入しようとしている。確かに敵の襲来である。道場に侵入されては大事と直ちに防御に入った。残っていたのは小山勝次郎(25才)、成田忠平、対馬清彦、鈴木雄、赤松又五次郎、野呂三吾、藤田弘(20才)、中野浩、長尾富士麓(20才)、長尾健字(13才)、長尾愛三、煤田格楼、中野百吉、笹森長ら12、3才の少年をも加えて、わずか14、5名で少年達が多かった。
3-5 まず先に少年達を勝手口から密かに脱出させた。襲撃に対して戦える大人はわずかであった。代表格の小山、成田などは敵の背面より、藤田、鈴木、野呂などは正面から打って出る手はずを決め、5本あった日本刀を夫々に分配し、他は木刀、こん棒で立ち向かった。「北辰堂」が道場の外へ打って出ると、待ちかまえていた「暘明館」との間にたちまち大乱闘が始まった。多勢に無勢とはいえ、必死の「北辰堂]の壮士達はよく闘い、襲撃者を道場前から撃退した。暗闇の中の小山と成田の背面攻撃は見事功を奏して、敵方を混乱させ同士討ちにさせた。東長町界隈は逃げる者、追う者、全くの大混乱となり、東長町、笹森町、長坂町一帯で大乱闘が繰り広げられた。その内に「暘明館」は笹森町方面へ潰走した。「北辰堂」はこれ逃がさじと追い込んでいった。ところがこれは「暘明館」の策略であった。
3-6 実は、「暘明館」は「北辰堂」へ襲撃する前に十二分に策を練り上げていた。あらかじめ隊伍を二手に分け、一つは「北辰堂」の正面に迫り、鬨(とき)の声を上げ石を投げ放ち闘争を挑み、敗走の状をなして「北辰堂」を東長町から笹森町方面に引き込み、伏兵配置場所に誘い入れる。一方は東長町の三浦福三郎近くの人家両側の軒下に配置し待ち伏せ、竹槍で四方を取り囲むという作戦であった。
3-7 策略に陥った「北辰堂」が四方から竹槍攻撃を受ける中、「暘明館」の成田誠一は仕込杖を抜き放った。「北辰堂」の藤田弘(明治法律学校の学生、夏休みで帰省中)は前頭部に刀創、背部に竹槍傷2ヶ所、野呂三吾は右膝の上に刀創、背部に竹槍の槍傷を受けた。悩ミソがはみ出る程の瀕死の重傷を負った藤田は、一時は快方に向かったが、1ヶ月余の後、北辰堂の関係者の親身の看病空しく、ついに不帰の人となった。
【藤田の才ンチャが40日で死ぬ日、「今日は大変気分が良い。風呂へ出かけてアカでも流そう」と亀甲町の中村湯へ行き、皆に付き添われて帰ってから、「一つ詩吟をやる」と言って「金州城外立斜陽」を吟詠し終わるとバッタリそのまま息絶えた。劇的シーンだった。立派な死に方だと皆がワイワイ泣いた。オンチャはその時20才だった。死体を解剖したら脳ミソが腐っていた。「よく生きていたもんだ」と伊東重医者が言っていたという】(ネプタ四方山話 工藤虎雄談)
4. 裁判沙汰に
4-1 襲撃があった現場周辺は足の踏み場もない程の石ころ、おびただしい数の竹槍の残がい、至る所に鮮血の跡があった。見る人々はその凄まじさに息を呑んだ。
早朝、鍛冶町の桶屋に警察の一隊がドッと踏み込み、職人が大勢寝込んでいた二階にドカドカと上がっていった。階段の下には血の付いたワラジがいっぱい脱ぎ捨てられてあった。丁度その時、女中が血の付いた竹槍をカマドにくべてご飯を炊いていた。警察は証拠物件として血の付いたワラジや竹槍を全部持っていった。無論、寝込んでいた職人全員捕縛され警察署に引っ張られていった。明け方に降雨があり、「北辰堂」向かいの喜久川菓子店前の水たまりに、七分(2cm)位の切断された指が落ちていた。和徳の鈴木某は指が無いので警察に呼ばれた。指を合わせてみたら違うので放免された。成田忠平、岡省太郎の隠していた刀に血が付いていたので警察の手が回った。「北辰堂」に重傷者が出たということで、「暘明館」の責任者として成田誠一、一戸寅之助が自首した。結果、「暘明館」の成田誠一ら24人が逮捕された。
4-2 当時、「北辰堂」では「ネプタでの喧嘩の決着はネプタで付ける」という道場の掟があった。警察の手で「暘明館」に復讐することを恥としていたため、身内に負傷者を出したにも関わらず、事実を隠蔽して「どこの誰が、何故押し寄せて来たのか全く分からない」と、警察の取り調べに対しては「一切分からぬ」と口を堅く閉ざしていた。
裁判の結果、「暘明館」側は証拠不十分として全員無罪となった。検察側は承知せず上訴し、2審で襲撃した首謀者の成田誠一だけ禁固6ヶ月の実刑判決を受けたが、他は又しても証拠不十分で無罪放免となった。
凄まじい闘いの跡を残し、互いに多数の犠牲者を出しながらも、最後は証拠不十分として無罪の判決が出た。これはネプタでの喧嘩の始末は、ネプタを担ぐ者同士で決着を付ける。たとえ讐察に引っ張られても、「知らぬ存ぜぬ」を通すことが相手側からも尊敬されるという歴史的しきたりがあった。津軽の風土に独特の武士の生き様が感じられる。
「命より名こそ惜しけれ陸奥の 武士の道をばかくや想わん………」
5. 喧嘩ネブタの時代背景(独特な弘前気質)
5-1 城下町弘前の独特なものとして、江戸時代からの「ネプタ祭り」がある。そこでは独自の弘前気質が現れる。津軽の厳しい風土の短い夏に、人々は日常の一切の拘束から身を解き放ち、持ちうるエネルギーの全てをはき出す。
木と竹と紙と極彩色の画で創った一過性の儚(はかな)い灯籠。扇ネプタの鏡絵には三国志の血みどろの激闘場面、生きる華やかさの極限。見送りの絵は血の滴る生首を抱いた美人。華やかさの陰にあるゾッとする殺伐としたこの余韻。明日は我が身の、生と死の表裏一体の世界がそこにある。この極彩色の絵はローソクの炎によって闇の中に浮かび上がり、怪しげに揺れ動く。大小無数の灯籠が町の至る所で引き廻され、死者は弔らわれる。
5-2 祭りには何処でも喧嘩はつきものであるが、弘前のネプタ祭りの喧嘩は歴史的に有名であった。元文4年(1739)7月6日「御国日記」には、「石を投げて相手のネプタを壊し、人に打撃を与え、木刀を振るって相手を打つ」とあり、もう喧嘩の記事が立派に載っている。手を焼いた町奉行は、頻繁に喧嘩禁止令を出していたが、全く効き目はなかった。維新直前の慶応3年(1867)の「御国日記」にも喧嘩禁止令が出ている。
城下の人々にとっては、武士の世界は勝負の世界、質実剛健の士気を涵養する空気が伝統的にあった。戊辰戦争、函館戦争、野辺他戦争などを経たことから、喧嘩ネプタで尚武の気質を育成するという、藩当局の臨戦的な姿勢が暗黙の中にあり、喧嘩は藩主より大いに奨励されて来たと信じて疑わぬ人々が多かった。藩政時代が終わっても、城下町特有の気風である尚武の風は消えずに残り、喧嘩ネプタは益々激しさを加えた。没落した武士階級には、不平不満の憂さ晴らしの格好の場であった。それが旧武士のみならず、一般市民にも及んだ。
町の道幅は狭く、大きなネプタが行き交う度に「よけろ」「よけない」の争いが起きても不思議はない。まして運行するのは、血気盛んな若者達である。口論が高じて掴み合いから始まり、石つぶての投げ合いが、次第に木刀などの得物を準備して出動する様になり、遂には竹槍、仕込杖、脇差等まで活躍する様になった。
5-3 明治18年の弘前讐察署長堀善八郎は、薩摩の出身で、西南の役の最後の激戦地田原坂(たばるざか)で闘ったという猛者であった。赴任して来た時、この喧嘩ネプタに大いに興味を抱き、取り締まるどころか逆に奨励し、「ぜひ見たい」というので、一番町の突き当りにある警察署から新町坂の大決戦を見にやって来た。ところがあまりにも石合戦がひどく、署長、顔や手に石をぶっつけられてほうほうの体で後退を余儀なくさせられた。「田原坂合戦どころじゃない。薄暗い夜陰の鬨の声は大地を振動させ、全く凄い。このネプタの壮士が200人あれば、ゆうに一鎮台の兵を圧するに足る」との名セリフを吐いた。
5-4 当時の城下町弘前の人々は、幕末動乱を「先見の明」をもって闘い、明治維新を生き抜いた事に対する誇りを子弟に伝達しようとする風土があった。それだけに喧嘩ネプタの第一線に立って闘うことには、大きな意義があった。一方の旗頭としての実績があれば、「あれだけいがべ、かなりネプタでやってだ」(あれだったらいいだろう、大分喧嘩ネプタの先に立ってリーダーシッブがある。十分男気がある)と周囲に認知され、政界にも出られた。当時は政界に打って出る人問の評価は、喧嘩ネプタでの活躍で決まっていた。「北辰堂」の小山勝次郎も「暘明館」の成田誠一も、後には共に市会議員になっている。
道場の子供達も喧嘩ネプタの後に、脇差を差してくっ付いて行くのは、一人前と見なされ、誇りとしていた。それは度胸を付ける手段であり、正に真剣を抜く覚悟の修業であった。第11代堂長の小山秀雄氏(卜伝流11代宗家)も中学生の頃、「北辰堂」のネプタを担いで出陣したが、空から地からのひっきりなしの石つぶてを受け、大変な目に遭ったという。当時はどの親も「人に負けるな、泣いて帰るな」と、子弟を厳しく仕付けて来た鍛錬主義があった。
6. 明治20年前後の「町道場」
6-1 明治の幕開きと同時に、息つく間なく日本中に社会的・経済的怒濤が襲いかかって来た。急激に変転していく事態・事物に対応し得ない者は落後していった。特に武士階級は未来への方途と目標を見出し得ないまま、無為の曰々が続いていた。明冶10年代の弘前住民は、殿様の居ないお城の「天守閣」を仰ぎながら、日一日と灯りが消滅して往く城下町の重苦しい空気に、底知れぬ焦燥感を抱いていた。
藩政時代からの武士の子弟教育の根底は、お城の「天守閣」を心の拠り所とした「文武両道」による「武士道精神」の養成であった。しかし明治維新と武士社会の崩落後の「武士道精神」の欠如によって、瞬く間に人心は頽廃し、士気軟弱に流れ、剛健気風衰えることとなり、城下の旧武士たちは大いに憂えた。更に新政府が創設した学校教育で欠落しているものがあった。それは弘前特有の尚武の気風である。大人達は「文武両道」の伝統的教育を何としても独自に醸成させようと考えた。
この様な中、時代の流れに最も機敏な若者達は、周囲が見失いがちな士気が今もなお体内に脈々と流れているのを自覚し、無気力と沈滞から自らが起ち上がる以外に道はないと悟った。即ち、10数年前までの藩政時代は、家中の若者達は文武をもって仕える家臣の「道場」に通っていた。そこには学を修め武芸に励み、身心の鍛錬と仲間意識を温めた日々があった。「道場」の空気は、地域に伝わる思想的血筋を背景に、その界隈の「文武両道」の士風を築いていたのであった。
こうして地域の大人達と若者達の熱き想いが、共に維新後廃絶した文武修練の場である「道場」再建の発芽に至り、明治20年前後あちこちに町道場が設置されるに至った。
6-2 この様にして出来た町道場が、
・「北辰堂」(明治16.9.8 笹森町20番地。現北辰堂道場の斜め向かいが菊地九郎宅で、その裏手)
・「明治館」(明治17.2.15 鷹匠町24番地。現在サムエル保育園)
・「暘明館」(明治20.8.21 北瓦ヶ町8番地。現在郵便局の向かい)
・「城陽会」(明治27.11.3 本町8番地、現在消防署)
であった。
6-3 明治期の道場は士族のみならず町人にも開放され、子弟に高等小、中学主、町の青年等が入っていた。こうした町道場は地域の若者達の集会場となり、撃剣や柔術の武道の修練のみならず、大先達の講話は無論、討論会、回覧雑誌の発行等、多彩な活動による知的方面の錬磨も行い、文化活動の中心ともなっていた。「北辰堂」では明治30年11月2日の演説会の記録に、弁士として笹森順造(11歳)や市川宇門(14歳)の名が並んで記載されている。
道場で修業した若者たちは、その界隈の指導者となった後も道場と縁を切ることはなく、先輩・後輩という固い連帯性をもって結ばれていた。この様にして次第に各道場とも強烈な仲間意識を持ち、尚武の気風を尊び、大いに気勢が上がっていた。
だが、結果的に町道場が醸成していったものは、「人に負けるな」といった激烈な対抗心であった。その意識は道場外で顕著に現れた。喧嘩ネプ夕は、それまでは不特定相手の偶々の町中での衝突であったが、明治20年代は喧嘩ネプタの主役は町道場に移った。若者達の集まる道場間の対立が一層熾烈なものになり、遂に明治24年、死傷者まで出た「北辰堂襲撃事件」が起きた.更に各道場には中学主も沢山通っていた関係で、明治34年「明治館」と「暘明館」の対立が激化し、和徳稲荷の宵宮の時、弘前中学生同士の乱闘があった。刃渡り一尺二寸の黒塗りの仕込杖で斬りつけ死傷者を出した。若者の熱気が暴走した青春の断片であった。
6-4 これを憂えた各町道場の幹部達が集まり善後策を協議し、各道場を統一したものがあればとの願いが出された。10年後の明治44年に大日本武徳会青森県支部が設立され、弘前公園北の郭に武徳殿が建立された。こうして各道場は武徳殿で稽占することとなり、「明治館」、「暘明館」、「城陽会」等の道場は次第に衰退していった。その中で「北辰堂」だけが生き残り現在に至っているのである。
7. 北辰堂襲撃事件の現代的意義
7-1 事件から122年…。「北辰堂」の壁に掲げられている古色蒼然とした名札一枚一枚は、明治、大正、昭和、戦後、そして現代へと沢山の浮き沈みの歴史を経て、その時々の道場の空気を真剣に創り伝えて来た証左である。彼ら一人々々は、どんな想いで修業して来たのだろうか。現在の剣道界は競技性(打合う楽しさ)が最優先し、審判の紅白の旗の上下しに、その修業目標を置くものに成り果てている。
「北辰堂」の創立精神といい、「北辰堂」襲撃に対して道場を死守した剣士達といい、そこにあるのは決して単なる競技としての剣道修業ではなかった。道場はあくまでも「至誠」に生き抜く人間としての基盤を養う聖域であった。130年もの長い間、脈々と廃れずに生き続けている「北辰堂」は、今 なお大和民族の素晴らしい遺産である剣道と、その原点てある古武道の技と精神を受け継ぎ、今日に至っている。
私たちはこの度の130周年を期して、大先達の方々が創り上げ伝えて来た「北辰堂」の精神を再確認しその意義を365日の朝稽古の汗の中に求めなければならない。
7-2 北辰堂を必死に守り抜いた「藤田弘」氏に、私たちは心からの敬意と感謝の念を抱き、ご冥福を祈る次第である。「北辰堂」は彼の死を風化させてはならない。
【注】「藤田弘」なのか「葛西保」なのか?
「北辰堂襲撃事件」で死亡した人物名は、明治24年8月14日付け東奥日報記事(市立図書館マイクロフイルム)には「葛西保」とある。道場に掲げられている名札の「藤田弘」とは姓も名も全く別名である。彼は当時、「葛西」家に養子に入っていたが、道場の皆から「藤田のオンチャ」と呼ばれていたので名札は「藤田」としたのだろう。これは納得出来る。しかし、「弘」でなく何故「保」なのだろう?どこで入れ違ったのだろうか…。
明治44年4月1日付けの北辰堂史(沿革提要)には創立時(明治16年9月8日)青年部の名前の中に「藤田弘」という人物はいるが「葛西保」なる人物はいない。この冊子は事件の20年後の物である。しかし、事件そのものに関した記事は掲載されていない。
昭和9年9月8日付けの北辰堂史には、「明治24年8月、侫武多喧嘩があり、北辰堂道場が襲撃を受け藤田弘氏斬られる」とある。この当時は、まだ事件の渦中にいた人物もおり、「藤田弘」なる人物名には問違いないと思う。
この寄稿記事では、「北辰堂」の道場に掲げられた名札の方に合わせて「弘」とさせて頂いた。(だが「弘」と「保」、どちらが正しいかの確信はない。ひょっとすると事件当時、「知らぬ存ぜぬ」を通していた北辰堂で、煩い記者にワザと「保」と言っていたのかも?)
【参考資料など】
北辰堂のあゆみ、北辰堂110周年記念誌、北辰堂保管資料、県郷土館資料(小山隆秀氏提供)、ねぷたの歴史(藤田本太郎著)、ネプタ祭り(笹原茂朱著)、弘前市教育史(上)、東奥日報記事、陸奥新報記事、弘前新聞記事、青森県日記百年史、青森県剣道史、三十年史(弘前剣道連盟)、青森県人各大辞典,弘前市政今昔(原子昭三著)、皇帝の森(いずみ涼著)、コンデ・コマ物語(三戸建次著)
以上、「北辰堂 創立130周年記念誌」(平成25年10月発刊)への、三戸建次氏「特別寄稿」を転載
親父の俳句のなかに、喧嘩ねぷたについてこんな一文がありました。
返信削除http://www2.odn.ne.jp/mokudou/575ta/TAM_06.htm