2019年2月6日水曜日

故相馬正一先生の七回忌近づく

相馬正一先生がお亡くなりになられたのは、2013年3月5日とのこと。来月の5日で七回忌ということになります。故笠井哲哉さんが正一先生の娘さんから伺ったということですが生前「墓はいらない。自分の遺骨は浅間山に散骨してほしい」と言い遺されていたとのことのようです。
この写真は、先生が弘前大学での学会のため?来弘されるとの情報があり連絡のつく限り集まって頂き、歓迎会を催した時のものです。場所は元寺町の翠明荘内にある四川料理「シノワ」でした。残念なことに日時が不明です。お分かりの方はお知らせください。


逝去される1年9か月前の2011年6月27日に、同期生15名(内、東京支部の方も数名)が軽井沢に相馬先生を訪問して楽しいひと時を過ごして来たことが、本ブログにcyocoさん(厚木の小田桐さん)が投稿されておられます。
話が逸れますが、太宰治が旧制弘前高校時代に下宿先で使っていた電気スタンドを下宿の息子さん(長男・故藤田本太郎氏)に譲って退去。のちにそのスタンドを太宰研究者である相馬正一先生に贈呈され、長年長野県の御自宅で保管されていたものを先生のご遺族が三鷹市の財団に寄贈。その電気スタンドが現在「弘前郷土文学館」(以前、舘田勝弘さんが館長だった)に展示されているとのことです。展示はロングランで、12月28日までとのことです。(東奥日報記事より引用)

4 件のコメント:

  1. 相馬正一先生を囲むこの写真がいつ撮影されたか詳しい年月はわかりません。この会は森山豊三君が皆に呼び掛けて行ったもので、写真も彼の撮影でなかったかと思います。相馬先生は2005(平成17年)に弘前大学から太宰研究の成果で名誉博士号を授与されました。その2、3年後?同図書館主催の記念講演会のために来弘されました。その前夜「シノワ」で懇親会を開いた時のもです。懐かしいな!!

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  2. ターザンさんの記憶確かだと思います。有難うございます。この時に一番驚いたのは、先生が私の少年時代ををよくご存知だったということでした。といいますのは、私の実家の真向かい(現在の県合同庁舎)に「弘前市立女子高校」というのがあって、後に「弘前市立商業高校」と合併して今の「県立実業高校」になったと記憶していますが、相馬先生はお若いころ「市立女子高」に奉職されていたそうです。その真向か私の実家だったのですが、私たちが卒業した随分後に弘高の校長をされた、鳴海重(しげし)先生のお住まいが拙宅と隣接しており、目と鼻の先ゆえに相馬先生が先輩教師である鳴海先生宅へよくおいでになられていたということを話してくれました。そのころに小学生だった私をよく見かけていたということです。
    さらに申せば、私たちが在学中の教頭先生に鳴海理三郎先生という方がおられましたが、すでに大病を患われ休職中でした。その鳴海教頭先生の弟さんが、のちに校長をされた重(しげし)先生です。つまらないことを長々と書きましたがそれ以来、何となく相馬先生に親近感を感じておりましたのでコメントさせてもらいました。dent

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  3. dentさん、相馬先生との係わりについてのお話よく分かりました。私にとっては14HRの担任であり強い影響を受けた事は間違いありません。先生が来弘された日、森山君と私の車で弘前駅にお迎えに行きました。また「シノワ」での懇親会の後も車で文京荘へ送りました。その途中先生は「弘前のラーメンが食べたいね」とおしゃったので、鍛冶町の夜のラーメン屋へ案内しました。弘前のラーメンはやっぱりうまいな、と言ったのが印象に残っています。翌日弘大みちのくホールで「太宰治の人生」の講演会に行きましたが、さんきゅう会では八木橋(中田)和子と私の二人だけでした。懐かしい恩師の公演に感銘を受けました。 その後相馬先生から万年筆の自筆のお礼状が届いておりました。さんきゅう会の歓迎と高校三年生の合唱に感激したとのこと。軽井沢の消印ですが11月6日付ですが残念ながら年号が良く見えません。
     先生がご逝去された後、偲ぶ会をやろうとかの話が持ち上がったこともありました。ご子息から遺骨は浅間山に散骨したとのお知らせも届いて立ち消えとなりました。

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  4. ターザンさん このブログを担当させていただくようになってから、自分の知らないことを随分と教えていただくようになり有難く思っています。謝謝! 森山君などはさんきゅう会関係の写真をたくさん撮られたのでしょうね。小出しにでもしてくれればいいのになあ(とつぶやいている一人です)

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